トップページ アダルトチルドレンとは プロフィール カウンセリングのQ&A 体験された方々の声 お問い合わせ リンク集
生まれてきてくれてありがとう 心痛むあなたへ さくらみるく
フォントを大きくするフォントを小さくする
上のアイコンをクリックして文字サイズが変更できます
【澤谷 鑛/さくらみるく
セミナーCD
ただ一度だけの人生を
あなたらしく
幸せに生きるために】

【澤谷 鑛/さくらみるくセミナーCDただ一度だけの人生をあなたらしく幸せに生きるために】 オーディオCD2枚(約120分)
価格:¥6,500.

お申し込みはこちらから。
サポーター募集 ただ今、さくらみるくの活動をサポートしてくださるボランティアを募集しています。 できるときにできることで、あなたのお知恵、お力、感性をお貸しください。 お問い合わせ、お申し込みはこちらから。

«前の記事へ
»後の記事へ

2010.12.30

マグダラのマリア

おお マグダラのマリア
主、なれを愛す
許された者のみ主の愛を知る

そんな美しい美しい聖歌があります。
大好きな聖歌です。

聖書の中に、こんな話があります。
映画を観るように状況が、思いの中に広がります。

イエスを、その返答によって罠にかけようと企む悪意ある人たちが
一人の女性をイエスの前に突き出します。

「この女は姦通の現場で捕らえられました。
 わたしたちの祖先の律法では
 このような罪を犯した女は石打ちの刑で殺せとあります。
 あなたはなんと言われますか。」

イエスは、知らん顔をして地面に何か指で書いておられた。
遊んでおられたのだ、という人もいます。
そのような本質的でない問いにはまったく関心が無かったのかもしれません。
しかし、あまりにも人々がうるさく問い詰めるので
立ち上がって言われます。

「この中で、罪を犯したことが無い者が
 まず、彼女に最初の石を投げなさい。」

そしてまた、かがんで地面に書き続けられた。

騒ぎ立てていた人々は、水を打ったように静まりました。
やがて、ぽとりぽとりと石の落ちる音が聞こえました。
年長者から順に石を捨て、一人、また一人とその場から立ち去り
やがて、すべての者が立ち去りました。

みんなの前で辱められ、殺されかけて震えていた女に
イエスは言われました。

「あなたを罰しようとしていた人たちは、どこにいるのですか。
 誰もあなたを罪に定めなかったのですか。」

女性は言います。

「誰もいません。」

イエスは言われます。

「わたしもあなたを罰しない。行きなさい。」

また、こんな話があります。

イエスが招かれて、食事をしている中、
一人の女がイエスを慕って訪ねて来ます。
行いが悪く娼婦だと蔑まれている女性でした。
当時の習慣では、食事は長いすに横たわりながらするものだったそうです。
彼女は気付かれないようにイエスの足元から近付きました。

聖書には、こうあります。

泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、
涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい
御足に口づけして、非常に高価な香油の入った壷を割って
惜しげもなくその香油をイエスの足に塗った。

イエスを招いたパリサイ人は、これを見て
「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで
 どんな女であるか知っておられるはずだ。
 この女は罪深い者なのだから。」
と、心ひそかに思っていた。

するとイエスは、彼に向かって
「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。
シモンは、「先生、お話ください。」と言った。

「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。
 ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十ギナリ借りていた。
 彼らは返すことができなかったので、金貸しは
 ふたりとも赦してやった。
 では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」

シモンが「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると
イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。

そして、その女の方を向いて、シモンに言われた。
「この女を見ましたか。
 わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが
 この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
 あなたは口づけをしてくれなかったが、この女は
 わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は
 わたしの足に香油を塗ってくれました。
 だから、わたしは言うのです。
 この女の多くの罪は赦されています。
 というのは、彼女はよけいに愛したからです。
 しかし、少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」

そして、女に「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
 

これらふたつの話に出てくる女性は、実は同一人物ではないかという説があります。
つまり、マグダラのマリアであるという説です。
遠藤周作は、マグダラのマリアはイエスに恋をしたのだと書いています。
聖書に詳しくない方も、ダヴィンチ・コードでその名前を聞かれたかもしれません。
しかし、そんな興味本位の話はどうでもいい。
この女性の心に、人の真情を見るのです。

女性の地位が著しく低く、虐げられていた時代に
それも特別に蔑まれ、時には命の危険にさえさらされていた女性が
生まれて初めて自分をひとりの、尊厳ある人間として扱ってくれた
イエスのその愛の眼差しにさらされて、心打たれて自らを見つめ
何の説教も無く、ただその愛の眼差しにより自分の貴さに目覚め
自らの汚れを洗い流そうとする心にいたる、その震える心の美しさに打たれるのです。
自分を恥じ、自分を傷つけてきた後悔に痛みながら
正面からはとても近寄れずに、イエスの足元から忍び寄る女の健気さに、心を打たれるのです。

髪の毛で涙をぬぐい口づけする、それは中東の風習や礼儀に適っているのかどうか知りません。
とても官能的であり、いかにも娼婦、という行動にも思えます。
もしかしたら、その場にそぐわなくても、軽蔑やひんしゅくをかっても
それでも、そのような行動でしか自分の溢れる思いを、愛を表せないほど、
娼婦の暮らしが身についた女性だったのかもしれない。
でも、恐らくはその女性のことも、周囲の思いも視線の意味も
すべてを知っていながらもそれを女性に赦したイエス。
知らん顔して、女に、したいようにさせていたイエス。
そして、そのように自分の体を女性に好きなように扱わせながら
女性の魂しか見ていなかったイエスの眼差しが心に迫るのです。

イエスが捕らえられ、酷い十字架の刑場に引き出されるとき
イエスに付き従ってきた弟子は、ひとりを残してみな逃げたとあります。
弟子のヨハネとイエスの母マリアと、そしてマグダラのマリアだけは
イエスと共に人々の激しい罵りや憎しみ、暴力を受けながら
その道行きに最後まで伴ったと言います。
すべての人を敵に回しても、その場を立ち去ることができなかったマリアの勇気とその思いは
どれほどであったことかと思います。
初めて自分を人間として見てくれた人への愛。
自分の命だけでなく、人としての命を救ってくれた愛への愛だったのでしょう。

十字架の上で息を引き取ったイエスは、母やマグダラのマリア、
数名の心ある人たちの手によって葬られます。
そして死後3日目に、マグダラのマリアがイエスの墓を訪れた時
墓の前の巨大な石が何ものかによって転がされ、遺体がなくなっているのを見ます。
マリアは悲しみに半狂乱になります。

聖書には、このようにあります。

マリアは、外で墓のところのたたずんで泣いていた。
そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に座っているのが見えた。

彼らは彼女に言った。
「なぜ泣いているのですか。」
彼女は言った。
「だれかが私の主を取って行きました。
 どこに置いたのか、私にはわからないのです。」

彼女はこう言ってからうしろを振り向いた。
すると、イエスが立っておられるのを見た。
しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。

イエスは彼女に言われた。
「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」
彼女は、それを園の管理人だと思って言った。
「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。
 そうすれば私が引き取ります。」

イエスは彼女に言われた。
「マリア。」
彼女は驚いて振り向いて叫んだ。
「ラボニ。」
それは、ヘブル語で「先生」という意味である。

イエスは、彼女に言われた。

「わたしにすがりついてはいけない。
 わたしはまだ父のもとへ上がっていないからです。
 わたしの兄弟たちのところへ行って、彼らに
『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、
 わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』
 と告げなさい。

マグダラのマリアは、行って
「わたしは主にお目にかかりました。」と言い、
また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

(新約聖書 ルカによる福音より)

高校の時からずっと、切なく愛しく何故か心打たれてならなくて
そばに置いていた絵があります。
それが、マリアが「ラボニ!」と呼びかけたこの場面の絵なのですね。

ティツィアーノの『ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)』

こちらからご覧になれます。

http://www.floralmusee.com/floral_muse/2006/04/_easter_egg_431b.html
上から二つ目の画像です。

他にも、この感動的な場面を描いた絵は幾つもありますが
わたしは、この絵が一番好きです。
この絵のマリアのように、
マグダラのマリアの衣の色は、赤でなくてはならないと感じます。
情熱の女性です。赤以外の何を着せるというのか。
また、マリアを拒絶していながらも優しさに満ち溢れたイエスの愛が
その身体の上半身と下半身との微妙な方向性の違いに表れているように感じます。

何故イエスはマリアに、「我に触れるな」と言ったのでしょう。
そう訊ねた幼いわたしに母は、
まだ昇天する前で実体が無かったからではないか、と答えました。
でも違うと思う。
この後イエスはご自身が体を持って復活されたことを弟子たちに証明しようと
弟子たちに手足の釘跡を見せたり、食事を食べて見せたりするのです。
だから、抱きつけば霞のように消えてしまうからとか、そんな意味ではないと思う。
すがりつけばイエスの体はちゃんと両の腕の中に捉えられたのではないかと思う。
でも、体は捉えられてもきっとそれはイエスの本質ではなかったのだろうから
見ているものが違うから、

だからイエスはマリアを制したのではないかと思うのです。
「そうではないんだよ」と。

わたしの中にあった、父なるもの求めて思いつめていた思いが
そのままイエスを慕ってやまないマリアの思いと重なって感じられて
それでこの絵に引かれたのだと感じます。
そして、インナーチャイルドは時々信用ならなくて
本当に求めているものを誤解したままで、
あまりにも激しくわたしを突き動かして求めさせたりする。
いつも受け止められたい思いがあって、
でもそれは、代わりを求めているのに過ぎないのだと、
わたしは本当はいつも知っていて、
だから、「そうではないんだよ」と言ってもらいたくて
ずっとずっとこの絵を見ながらそんな思いを反芻してきたのかもしれません。

あまりにも一途なこの女性の心を、たくさんの画家が
たくさんの名画として残しています。
どの絵のマグダラのマリアも、静けさの中に燃えるような情熱を感じさせます。

«前の記事へ
»後の記事へ